Interview

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伊澤絵里奈「そんな気がした」

ふたりの男性を撮り続ける

「だれかと会話していて、『そんな気がした』ってフレーズを使えるのは、ごく限られた相手に対するときだけ。人との距離感はわたしにとって大切なこと。今回展示する写真は、『そんな気がした』と言える距離感の相手を撮ったものばかりです」

 そう伊澤絵里奈さんが話すとおり、今展を構成する写真の被写体はふたりの男性。ひとりは、自身の弟だ。

「弟が20歳になるころから撮り続けています。そのころ、まわりに『仲がいいね』と言われることが多かった。小さいころからそうだったのでこれがふつうだと思っていたのに、どうやらそうじゃないのかもと気になって、カメラを向けるようになりました」

 家のなかや近所の戸外に誘ったりして、弟の姿を撮りためていった。そのうちに、恋愛感情をともなう彼氏ができた。弟も彼氏も「好き」な対象であることは変わりないのに、自身の心のうちで占める位置が違う。これはなんだろう。探るために、もうひとりの被写体としての彼氏が浮かび上がってきた。

「弟は血がつながっていて、切っても切れない関係。彼はそういう存在じゃないけれど、同じように愛情はある。それぞれの写真を並べることで、どこが違い、何が違わないのかをたしかめたかった」

 いずれも近い間柄にある被写体なのに、写真を見れば正面切って向かい合ったポートレートはなく、撮り手と被写体のあいだに小枝や葉群れ、ガラス窓などちょっとした障害物が置かれていたりする。なぜそうした写真になっている?

「わたしの人に対する距離感にぴったりとくるので。それに、あいだに遮蔽するものがあったほうが、観る側が画面に自己投影しやすいんじゃないかともおもいます。わたし自身がそうなので。自己投影をしたくて写真を撮ったり眺めたりしているところがあって、それには人の顏がはっきり写っていないほうがいい。わたしがそこに“入り込みやすい”写真ということは、観てくださる方もきっと入り込んでもらいやすいんじゃないかと想像しています」

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黑田 菜月「けはいをひめてる」

そこに何かある、そんな「けはい」を表せたら

「すこし怖いんだけど、もうすこし近づいてみたい」

そんな気にさせられる場所ってありますよね。目に見えなくとも、そこには何かがあるんじゃないか。そういう感覚をなんとか表せたらとおもって、今回展示する「けはいをひめてる」をつくりました。

この作品では、公園のなかの小さい池や水たまりといった、水のある光景が多く写っています。水辺は「ふち」というか境界というか、まさに気になるけれど近づきがたい雰囲気を持つ場所の象徴におもえるんです。

水とともに、子どもの姿もたくさん写っています。子どももまた「あいだ」にいる存在で、わたしたちとはちょっと違ったものの見方をしていると思われがちですよね。何かに異様に固執したり、なんでもないものをやたら怖がったりとか。

たとえば母親が留守のとき花瓶を割ってしまったら、この世の終わりかというくらいとんでもないことをした気になりませんでしたか? 自分だけの小さい世界にいるあの特別な感覚や、ヘンな思考回路。かつて自分も持っていたはずなのに、ほとんど忘れてしまっているそんな感受性を、もういちど思い起こしてみたい。彼らの見ているものや視線を写すことによって、観る人にもういちどあの世界を垣間見てもらいたいんですね。

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手元に置いた作品は、記憶や感情を想起させてくれる

とはいえ、そういう考えのもとに撮れば、写真の画面に「眼に見えないものが写る」などと信じているわけじゃありません。写真は、人に何かを思い出させる装置です。そこに写っているものを見ることで、自分のなかに眠っていたイメージを膨らませたり想起したりすることができる。そこが写真のおもしろさだとおもいます。

見えないものが写るのではなくて、そこにないイメージをそれぞれの観者がおもい描ける。その楽しさを、作品を通して味わってもらえたらうれしいです。実際、わたしが写真にのめり込んでいったのも、撮った写真を見ることで、自分の記憶やこだわり、ものの見方や考え方なんかを発見できるのが楽しかったからでした。

写真作品を手元に置くと、同じような体験がきっとできますよ。見るたびに自分の考えが揺れ動いたり、何かを思い出したりといったことが、日々起こるはず。しばらく部屋に置いていたのに、今日いきなりある細部に気づいたり、急に画面が懐かしさを帯びて見えてきたりといった発見は、いつまでも尽きないとおもいます。

画面が変化しているわけではもちろんない。けれど、観る側の心持ち次第で、毎回違った記憶や感情を呼び起こされていく。だから、そういう見え方の変化が、ずっと持続していくのでしょうね。

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天野 祐子「海辺」

あらゆる場所は、海辺だとおもう

展示した作品は《海辺》と題していますけれど、波打ち際のような文字通りの海辺は写っていません。

環境問題を提起した「沈黙の春」で知られ、本来海洋生物学者だったレイチェル・カーソンの著書『海辺一生命のふるさと』から想を得たものです。すべての生命は海から生じたのですし、あらゆる場所はかつで海だった。いまの陸地は、後に推移が変わったり大地が隆起したりしてできただけですよね。

「地球上のあるゆる場所、ものはすべて海から生まれた」のだといえます。ならば、地球上の何を撮っても海辺の写真だと、私には感じられるんです。それでこのところ、海辺をテーマに作品を撮り継いています。

もともと、写真を撮るときにいつも考えていたのは、いま私の眼に映っていること以外のすべても、なんとか写せないものかということ。たとえば、ひとつの山にカメラを向けたとする。その山がかつてどんな姿だったのか。これから先、どう変化するのか。フレームに収まらないけれど山はその先にも連なっている、その向こうはどうなっているのか。山は途切れたところにはおそらく人が住んでいるだろう、どんな暮らしがあって、だれとだれがつながっているのか……。そういうことをすべて、写真のなかに入れ込めないかなと。

いま、ここにあるものを撮った写真から、過去や未来や、ほかの場所のことまで感じ取れたら。それができれば、その写真は何百年後かの「未来への資料」にもなり得るんじゃないか。私が抱いていた写真に対するそんな考えに、レイチェル・カーソンの海辺の捉え方が合致したんですね。実際の作品を観ていただいて、そういうことを少しでも感じてもらえたら何よりです。

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生活のなかに作品が入り込む「効用」

私の写真にかぎらずですが、作品を自分の家や部屋に飾ってみると、それを観ておもうところや感じることが、きっと日々あるはず。作品は部屋のなかで、「額に囲まれたひとつの景色」になります。部屋に現れた景色を、長いあいだ繰り返し、眺めるともなく眺める。と、作品はいつしかそこで暮らす人の記憶の一部になっていく。もっといえば、その一枚の写真に、すべての記憶が収められるかもしれない。

茨城の実家で暮らしていたころ、撮影場所として通っていた池から自宅へ帰る丘の上で、私はいつも月を見上げていました。それが毎日の習慣になっていたんですね。当時の私の記憶は、日々仰ぎ見ていた月としっかり結びついている。すべての記憶が、丘から見た月に集約されている感じがします。

願わくは私の作品が、誰かの暮らしの空間のなかで、かつての私にとっての「丘の上の月」みたいな存在になってくれたら。作品が記憶と結びついて、その人にとって大切な何かになれば嬉しい。作品を生む側としては、いつまでも飽かずに見続けることのできるものを、いつだってつくっているつもりです。

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